大きくなり過ぎた木 伐採の日
その大きな木があることに気づいたのは伐採の日が間近に迫った頃でした。上の写真は伐採された直後の2019(令和元)年12月16日朝に撮影したものです。写真奥の建物は桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の記念館です。
志手とその周辺を歩いてみると、いろんなところから、その木を見ることができました。こんな大きな木なのに、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者の視界に入ってこなかったのは、植物に疎い筆者が関心を持たなかったからですが、伐り倒されることになって急に興味が湧きました。
この大木の伐採が2019(令和元)年12月12日から始まると聞いて作業を記録することにしました。
この木がメタセコイアであることを知ったのも伐採作業のちょっと前くらいだったでしょうか。
この木のことを思い出したのは、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が、駄原総合運動公園にある背の高い木々について何か書こうと考えたのがきっかけでした。
このブログの筆者は駄原総合運動公園の木々がメタセコイアだと思い込んでいました。ブログ「メタセコイアとラクウショウ① 空に真直ぐ伸びる木々 落羽松」(2024年7月4日公開)を書くにあたって、念のために大分市公園緑地課に電話してみました。すると「ラクウショウ(落羽松)」との答えが返ってきました。
動画「大きくなり過ぎた木 メタセコイア伐採の日」の最後にテロップを入れましたが、大木が伐り倒される「最期」に立ち会いながら、この木の由来を何も知らないことに改めて思い至りました。
「誰が、いつ植えたのか」。どうでもよいといえばどうでもよいことがですが、それが気になります。このブログの筆者の習性で、今回もこのメタセコイアの生い立ちを探ろうとしました。
そのうち、このメタセコイアと関係ありそうだという一人の人物の名前を小耳にはさんだのですが……
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メタセコイアの大発見は2回あった
植物に関する知識が少ないこのブログの筆者には参考書が必要です。大分県立図書館で探してみると、右の本がありました。
「メタセコイア 昭和天皇が愛した木」(斎藤清明著 中公新書)です。とりあえず図書館で借りて読むことにしました。
メタセコイアをめぐる幾つかの物語が書いてあります。第一はメタセコイアを発見した日本の研究者の話です。
土の中から取り出した植物遺体(泥炭や粘土に埋蔵されている半化石状態の植物)を丹念に調べていく中で、研究者はこれまで分類されていた樹木と違う「新種」であると判断できる特徴を見出しました。
新種は幾分セコイアに似たところがあるというので「メタセコイア」と名付けたそうです。名付け親は植物学者の三木茂(故人)。当時京大理学部講師だったようです。
メタセコイアに関する論文が発表されたは1941(昭和16)年でした。大発見でしたが、この論文は戦争に妨げられて、欧米の研究者などには届かなかったそうです。この論文が注目されることになるのは戦後でした。
ところが、地表から消えたと思われたメタセコイアは中国で自生していました。湖北省と四川省の境界地域に自生地(磨刀渓)があり、中国の研究者によって発見されます。
中国の2人の研究者によってメタセコイアの発見が正式に報告されたのが1949(昭和24)年だったそうです。
報告した中国の研究者の1人は三木の論文を読んでおり、採集された標本が、三木が絶滅新属としたメタセコイアであると同定したそうです。
ちなみに、メタセコイアは白亜紀後期に出現して以来現在まで約1億年間、ほとんど形態的に変化せず、種分化もしていない。つまり進化をせずに来たことになる、と「メタセコイア 昭和天皇が愛した木」の著者は書いています。メタセコイアが「生きた化石」と呼ばれる由縁です。
研究者人脈 米国、中国、日本をつなぐ
種子は米国経由で日本にも届き、受け取った原寛・東大理学部助教授(当時)が1949(昭和24)年3月に種を撒き、1カ月後に数本が発芽したそうです。日本でおよそ80万年ぶりにメタセコイアが復活した記念の年となりました。
中国、米国、日本をつないだネットワークが米ハーバ―ド大学の人脈でした。発見報告をした中国人研究者の1人と種子を受け取った日本の研究者(原寛)はともにハーバード大学に留学経験がありました。
仲立ちしたハーバード大教授で同大の植物園の園長だったE・D・メリルは2人とは旧知だったということです。
ハーバード人脈だけでなく、さまざまな研究者のネットワークが世界中にメタセコイアを復活させる力になったようです。
日本にメタセコイアをもたらした人物がもう一人いました。米カリフォルニア大学古生物学科のR・W・チェイニー教授です。チェイニーは生物学者であった昭和天皇にメタセコイアを献上しています。
三木は東大、京大、東北大などの研究者に声をかけて発起人となってもらい、1949(昭和24)年12月にメタセコイア保存会の第1回委員会を開くところまで漕ぎつけたといいます。
三木の尽力が実って1950(昭和25)年2月、カリフォルニアのチェイニーから保存会宛てに苗木100本が送られてきたそうです。これを東京と京都でまず半分ずつに分けることになりました。
東京は東大を中心に分配され、北大2本や東北大3本のほか、東京都3本、新宿御苑2本、国会2本などと配分されたそうです。
苗木100本配る うち九大3本、宮大2本
京都に運ばれた50本はどうなったのでしょうか。こちらは京大12本、京都市3本、大阪市3本、大阪市立大学2本、神戸市3本、奈良市2本、宝塚植物園2本、名古屋市3本、岐阜市3本、九大3本、宮崎大2本、高知大3本、鳥取大3本、朝日新聞社3本と配分されたようです。
上の数字は「メタセコイア 昭和天皇が愛した木」(中公新書)からの引用ですが、念のために足し合わせてみると47本でした。3本足りないようですが、この本以外に手元に資料がないので、そのまま引用してます。
メタセコイア保存会では求めに応じて積極的に苗木の頒布を行っていたといいます。
日本人が発見したメタセコイア。昭和天皇に献上されて皇居に植えられたメタセコイア。メタセコイアは日本の戦後復興のシンボルともなって全国各地で盛んに植えられたようです。
メタセコイアを植えることが一種の流行になった時代があった。それが分かったところで、最初の疑問に戻ります。志手のメタセコイアは「いつ、誰が植えたのか」。それがこのブログの筆者が抱いた疑問でした。
桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)は大分県が管理しているものですから、県関係者が植えたと考えるのが自然です。
では「なぜ、ここにメタセコイアを植えたのでしょう」。そもそもメタセコイアを植えようという発想はどこから出たのでしょうか。
そんなことを考えるうちに一つの仮説が頭に浮かびました。「九州大学に配られたメタセコイアが志手のメタセコイアのルーツではないか」と。すると「九大」と「志手」をつないだ人物がいるのではないか。
「志手」「九大」で連想される人物が確かに一人いました。
「志手」と「九大」で連想されるのは
志手に縁がある九州大学の関係者といえば園田久氏(故人)です。九大で長く「力学」を教えていたそうです。
著書の中で園田教授の経歴が少し書かれてあります。
それによると、1920(大正9)年大分県生まれで、九州帝国大学理学部に入学し、1943(昭和18)年に卒業。卒業とともに原島鮮教授の助手となって学生の力学演習を担当したと書かれています。
大学に残った園田久氏はその後、旧制福岡高等学校を経て九大教養部教授となり、最後は理学部の非常勤講師を務めたとあります。
著書の略歴には大雑把に大分県生まれとありますが、正確に言えば大分市の志手出身です。ちなみに昔の志手は「園田さん」ばかりの小さな集落でした※。
※「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん そのルーツは?」(2023年1月3日公開)に少し詳しく書いています。
ところで、「九州大学百年史」によると、九州帝国大学に理学部が開設されたのは1939(昭和14)年ですから、園田久氏は理学部の第1期生となります。
九大の百年史をもう少し読むと、理学部の入学者募集は工学部の募集に便乗する形で行ったが、PR不足のために定員を充たさず、4月に追加募集を行ったとあります。
それで物理学科の入学者は4人増えて計19人になったそうです。この4人の中に園田久氏が入っていたと思われます。
と、ここまで「志手」と「九大」で連想される人物、園田久氏について簡単に紹介してきました。
このブログの筆者はそう想像したのですが、筆者の手元には、氏が志手のメタセコイアと関わっていることを示す資料はありません。筆者の想像とは違って、志手のメタセコイアと九大は何のかかわりもないのかもしれません。
宮崎大学に送られたメタセコイアが志手の「親」なのかもしれません。あるいは、まったく別のところから調達されたのかもしれません。
いろいろ興味を持って調べるのはいいのですが、いつも尻切れトンボになってしまう。このブログの筆者の悪い癖がまた出てしまいました。今回も期待外れに終わってすみませんでした。
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